過去への回想、現代への黙想
最近(結構前からでもあるけれど)、2000年代前半のものが国内外問わずちょっとしたブームのような事になっている。車に至ってはスポーツカーなんかは投機対象になってしまい、価格がとんでもないことになっていたりする。国内で言えば、「平成一桁ナントカカントカ」(詳しくは各自で検索願う)とかが該当するだろう。
かくいう僕もタブレット全盛期のこの時代にあえて小型10インチノートパソコンを持ち運び、こうして空港のラウンジでこの文章を認めてたりするのだが、これは言ってしまえば過去への執着に過ぎないからと言ってしまっても差し支えは無い。
思えば初めてインターネットというのに触れたのが親が家電量販店で買ってきたノートパソコンであった。OSはwindows vista(のちに7にアップグレード)、ディスプレイは15インチのWXGA、ストレージは1TBのHDD。windows 11を使っている身からすると信じられないような低スペックだが、当時はそこまで困らなかったように記憶している。
電源ボタンを押してからログイン画面にたどり着くまで、さらにそこからデスクトップ画面にたどり着くまでかなり待ったが、それも苦ではなかった。むしろその間に飲み物やらを準備して、来る楽しみの時間を心待ちにしていた節さえあったのだ。
wifiが無かったのでノートパソコンは有線LAN接続でリビングルームに置かれ、自室に持ち帰って使用は叶わなかった。それにパスワードは親しか知らなかったのでいつでも使用できる状態にはなかったのだ。しかし、僕にとってはそれが逆に良かった。親の手伝いやらお使いやらをこなしてそのご褒美として使わせてもらう。思い返せばいい時代であった。
そう、「思い返せば」である。前にも言ったが、時の流れは大概の事を美化してくれる。よっぽど嫌なことでない限りは忘却の彼方へ押し流され、後に残るのは美化された記憶だけ。だから、僕に限らずみんな過去の記憶をこうして長文で語れたりする。
それが一概に悪いこととはとても言えない。しかし昔が絶対によかったか?昔は全ての問題がなく楽しく暮らせていたか?と言われるとそれは間違いなくNoである。しかしどうもこの広い世の中、前述のように考えてしまう人々がそれなりの割合で存在する。
現代だって昔と比べれば大分生きやすくなったし便利になった。例を挙げると枚挙に暇がない。コンプライアンスどうのこうのの批判はあるが、コンプレックスを突いて人を笑う事が許されなくなった。 仕事でパワハラやらセクハラやら飲み会でのアルコール強要が無くなった。
他にも色々あるだろうが、技術の進化だけでなくありとあらゆる面で現代社会が良い方向に向かっているのは最近BOOKOFFで200円で叩き売られていたFactfullnessにも書いてある通りである。昔は図書館に寄贈の依頼の張り紙が出る程の人気本だったのに何があったのやら?
とにかく、昔の良かった面の回想に浸るのは休日の暇つぶしには悪くない選択であるが、余りにも美化しすぎるのも考え物であるという主張であった。
というか、僕のような悲観的な人間はその良き昔を生きていた当時もなんやかんやで悩んだり苦しんでいたりしていて、そこは現代と全く変わらないのだ。
それなら今後AIの進化に合わせてやってくる最高に生きやすい時代を楽しみにしていた方がよっぽど分の良い暇つぶしだと思うが、そこは人の好みなので僕からどうのこうの言う権限はない。
以上。この記事はここまで。